人生のどん底で推しに出会ってフォロワー7000人になった私の話⑨ 育児編

マインド
スポンサーリンク

前回の記事はこちら

人生のどん底で推しに出会ってフォロワー7000人になった私⑧ 育児開始~入院編~
前回の記事はこちら翌朝、麻酔の管が抜かれて帝王切開後最初の難関はトイレに行くことだとネットで事前知識を得ていた。しかし私は痛みよりも、足の痺れよりも、尿管がとにかく嫌なので何が何でも...

夫と息子と私の三人の生活が始まった。

季節はまだまだ暑い九月の半ば。

 

家に帰ると息子のベビーベッドには布団が敷かれ、服も用意されて箪笥に入っていて、おむつが手の届くところにおいてあり、哺乳瓶は除菌されていて、入院時にはなかったミルトンの除菌つけ置き容器がキッチンに置いてあった。私の入院中に夫が用意したんだろう。

このように、夫は基本的には気が利く。できない家事は特にないし、私よりきれい好きな部分もある。小さなころから常に犬猫がいる環境で育っていて、目もまだ開いていない子猫を哺乳瓶で育てた経験もあるし、「生き物を育てる」という経験値はある方だ。

だが、そんな夫とでも子育ては全くうまくかみ合わなかった。

 

 

というか、夫との結婚生活はそもそもお世辞にも上手くいっているとは言えなかった。

会話がなく、価値観も合わず、共感してもらえず、土地も合わず、仕事を手伝ってもはじめの頃は給料も出ず、楽しい話でゲラゲラ笑ったことなんて何年もなかった。

詳しくは以下の記事。

人生のどん底で推しに出会ってフォロワー7000人になった私③ 結婚生活は合わないことだらけ
前回の記事はこちら結婚して1週間で既に帰りたくてたまらなくなっていた。 環境が悪かったわけでも、貧乏したわけでも、暴力を振るわれたわけでもない。朝7時からの仕事も、義母さ...

 

実は妊娠中にもひどい喧嘩は何度もしていた。

でもせっかく授かって、大切に大切に守り抜いたかわいいかわいい息子がいれば、夫婦関係もこの子への愛おしさで改善するだろうと思っていた。

ここへきても、私は夫との関係性の改善に「息子」という人頼みだったのだ。

 

 

息子は本当に可愛い。

私がミルクをあげすぎてむちむちになっていたが、そのまん丸の顔もぷくぷくの手足も本当に可愛い。

赤ちゃんは笑顔のように見える表情を作ることがあるが新生児特有の反射であって笑顔ではないという予備知識は得ていたので、一カ月検診で「目が笑っていればもう笑顔ですよ。お母さんに笑いかけているんですよ」と言われた時は本当に嬉しかった。

それまで感情の見えない不思議な生き物だと思っていた息子と意思の疎通ができていると初めて感じた瞬間だった。

 

風邪ひとつひかずにすくすく育ち、体型は大きくて活発だった。神経質だからなかなか寝ないけど、よく笑い、よくもにゃもにゃ話し、よく遊び、健康そのものでありがたかった。

ほんのひと時の赤ちゃんの息子との生活を今思えばもっと楽しみたかった。

 

 

何故なら、かわいい大切な息子のお世話は本当に本当に過酷だった。楽しむ余裕なんて全くなかった。

二十四時間、一時間に一度くらいのペースで泣き、泣きだしたら「泣く理由」が解消するまで絶対に泣き止まない息子。「ほっといたらいつのまにか寝ていた」ということは二歳くらいまで一度もなかった。

深夜でも息子の泣き声で起き上がらなくてはいけない。ベッドの中で横になったままトントンして寝るなんてことはない。とにかく起きないと絶対に無理だった。

泣く→おむつの確認→おむつ替え→だっこ→授乳→ミルク→寝かしつけ→だっこ→泣く→寝かしつけ(→運が悪ければまだおむつ替えから授乳へ)のループが延々続く。

 

当時は夫と私がそれぞれ別のベッド、息子がベビーベッドで寝ていた。ベッドで川の字になっていた状態。なので私も隣だが夫も隣なのだ。だが、とにかく夫は起きない。

夫の言い分としては、「君は起きるのが早すぎる。もっと泣きだしてからだったら俺も気付くし、ほんの少し泣きだしてからすぐに構うからいけない」みたいなことらしいが、「ギャン泣きしだしたら泣き止むまでに数倍の時間がかかるんだ!!」と毎度喧嘩になるので、次第にこの話をするのが嫌になっていった。

あと、ギャン泣きされると激しく動悸がして苦しいのでギャン泣きさせたくなかった。

 

出産前は「深夜の授乳は三時間ごとなのだから完全に夫と分業にしよう」と思っていたし、実際深夜授乳はできる日は一回パスしていたが、一回以上パスはできなかった。

理由は、とにかく胸が張るから。一回パスしただけで授乳パッドはパンパンになり、シーツを何度も汚した。

横向きに寝るのも気を使い、授乳期間中はうつぶせに寝られなかった。

気付かぬうちにうつ伏せで気絶していてベッドがべしょべしょになったこともあった。

 

そんな状態だから、その深夜の一回は確実にパスして寝たいのに、夫はなかなか起きない。

「夫を起こす」というアクションをするならそれはもう起きているのと一緒なのだ。

どうか勝手に起きて勝手に息子の世話を全部やって勝手に寝かしつけていてほしい。

でもそんな日は授乳期間中に一回でもあっただろうか。

夫にすれば「君は寝てていいんだから勝手に起きて文句を言っている」状態なのだ。それは確かにわかる。その通りだとも思う。でもギャンギャン泣いている息子の横でいびきをかいている姿を何度も何度も見ている方としては、「お前が起きないからだからな!!」と、どうにもならない怒りがつのるばかりだった。

 

しかも息子が三カ月になるくらいの頃まで夫は出張飲み会がやたらと多かった。

文句を言うと義母さんに「仕事なんだから」とたしなめられた。

その仕事は心身ともに限界な嫁と赤ちゃんをおいてまでしなきゃならない仕事なのか?!飲み会が?!と言いたかった。というか今なら言ってる。追い詰められた精神状態の時は反論する力もなかった。

今日もいない。今日もいない。ほんの少し息子を抱っこしていてほしいのにいない。

今が何時かもわからない中、一人で息子を抱えていた夜がとても多かった記憶がある。

 

 

夫への苛立ちも私を苦しめたけど、苦しみの根本にあったのは「育児の正解の無さ」だ。

ミルクの量はこれで正しいのか、授乳はできているのか、そもそも一体どうやったら息子は寝るのか。

寝かしつけには平均三十分、長い時には二時間以上かかった。

とにかく寝てほしい。この子はどうしたら寝るのか誰か教えてほしい。

勉強も、仕事も、学ぼうとすれば今まで必ず正解があった。王道があった。育児は恐ろしいほどに王道が存在しない。体調不良とメンタルの限界を解決する糸口を探そうにも「それぞれだから」と切り捨てられる。

正解が知りたい。どこかにあるはずだ。この苦しみを終わらせられる正解が。

 

すがる思いで検索していて見つけたのが「ジーナ式」の睡眠方法だった。

その方法が上手くいけば、生後わずかだろうとベッドに置いただけで寝かしつけは終わり。子供が自分の力で眠れるようにという生活習慣を教えるというものだった。しかも深夜授乳も最小限。子供が熟睡できるので深夜覚醒も減るというもの。

ただしその生活を手に入れるためには寝室を完全に真っ暗にすることと、かなり細かいスケジュールに沿って一日を過ごすこと、するべきこと、してはいけないこと、寝具も細かく決まっていて、ここからひとつでもずれると上手くいかないというものらしかった。

ほぼ一時間ごとに決められているスケジュールに(月齢が上がると段々ゆるくなっていく)こんな細かいスケジュール、赤ちゃんに本当にできるの?と思ったが、インターネットで体験談を見ると成功していて、生後二カ月から一人で寝て深夜授乳もなし、というような方もちらほら見かけたので、「これしかない!」と思って必死にジーナ式の本を読み込んだ。

 

泣きじゃくる息子に「飲んでなさい!!」と乳首を押し当て、上手く回らない頭で血眼で本を読んでいた時期のことは今思い出しても涙が出そうだ。

寝たい。とにかく一晩ぐっすり寝たかったのだ。

 

だが、ズボラで時間を守れない私にはジーナ式は合わず、結局失敗してしまった。あの時期必死にスケジュールに付き合わせようとして無理やりおくるみを着せて無理やり寝かせようとした息子には悪いことをしてしまったなと思う。

ということで眠れない日々はまだまだ続く。

 

今思えばあの頃の正解は「市の保育園の一時保育の枠の確認をして預ける」などとにかく人に頼ることだった。

育児を一人でしているのではない、息子のことをよく知っていて、相談できる人が一人でもいれば全く違っていたと思う。

 

 

追い討ちをかけるように息子が三カ月の時に新型コロナウイルスが流行り始め、乳児育児中の私はほとんど外出できなくなった。

 

閉鎖された環境で、ひたすら単純作業を繰り返し、誰とも人間らしい会話をしない。

どれだけメンタルが健康な人でもこんな状態に置かれたら何かしらの症状は起きて当然だと思う。

とにかくずっと具合が悪かった。一晩でいいからゆっくり寝たかった。一日でいいから息子のミルクについて考えない日が欲しかった。授乳しないと腫れる胸をひきちぎりたかった。

 

 

新型コロナウイルスの影響で夫の仕事もうまくいかず、過去最低の赤字になり、経営者である夫の収入は1/3以下になった。

結婚してから経済的な苦労はしてこなかったが、子供が生まれたばかりで何かとお金がかかる時期に初めて経済的に大変にもなった。

家の地獄のような雰囲気に経営難で夫は円形脱毛症になっていたが、私にはそれを心配する余裕はなかった。

夜たっぷり寝れて仕事で家を離れられているお前がなんで円形脱毛症みたいなわかりやすいものを発症しているの?!私の方が辛いのに!と苛立ってすらいた。

 

 

あらゆるストレスに耐えきれず、夜は眠れず、夫と話せば喧嘩ばかりで連絡事項以外一言も話さず、ピリピリとした空気の中で生活していた。

当時の家はリビングと寝室しかなかったので逃げ場もなく、夏になると夫の職場の敷地内に住んでいたので業務用の換気扇が一日中鳴り響く中でいなければいけなかった。音が気になる私はこれも耐えがたかった。

少し気晴らしに外出しようにもコロナで出られない。息子がいるので散歩もできない。最低限の買い物もネットで済ませたらどうかと言われる。その買い物以外一歩も外に出られないのに。

その方がいいのはわかる。でも耐えがたい。

 

どうしても辛くて義母さんに息子を預かってくれないかと頼むと快諾してくれた。

息子が生後五ヶ月の時、はじめて一人でカフェにいった。切迫早産入院中から数えて、一年以上ぶりくらいのカフェだった。

やっと息ができる気がして、泣きながら車を運転した。

でも、カフェについても落ち着かず、ゆっくりしようと思っても体は緊張のスイッチを切れなかった。

結局無駄に時間だけが過ぎ、終始時間を気にしながら少しだけ買い物をして帰った。帰ると不機嫌な表情の夫が息子と待っていた。

ここから逃げたいと何度も思った。

 

 

数えきれない喧嘩をして、何度も出て行けと言われ、もう好きじゃないと言われ、何で出ていかなかったんだと言われた。

出て行きたかった。今すぐに出て行って札幌に帰りたかった。

でも頼る人は誰もいなくて、仕事も一年以上していなくて、資格もなくて、一歳にもならない息子を抱えて一人で働き始めて生活をする力はなかった。

 

毎日死にたい気持ちで耐えた。何のために耐えているのかもよくわからなかった。息子のためとは言いたくなかった。私は私の人生に責任を持たなければいけない。息子のせいにはできない。

私の勇気がないから、私に頼る人がいないから、私に力がないから選べない。息子のせいではない。でも、一人で息子を育てることができないなら二〇年ここで暮らさなくてはいけない。耐えられない。でも、耐えなくてはいけない。それが一人の命を産むと決断した責任だから。

私は私の人生をかけて息子の人生の責任を取らなくてはいけない。

必ず幸せにしたい。私が幸せでないとそれは叶わないのはわかっているけど、幸せになる方法はわからなかった。絶対に離れたくもなかった。

 

 

忘れられないことが起こったのは息子が七ヶ月になった四月。

午前四時に息子が泣き止まず、それまで二時間付き合っていた私は限界だったので夫を起こそうとしたが起きない。いびきをかいてぐうぐう寝ている。十一時に寝て今まで一度も起きることなく寝ている。私はそんな夜、息子と暮らすようになってから一度もないのに。

「起きてよ!!」と夫の太ももを叩いた。すると夫は驚いて飛び起きて「叩くことないだろ!!」と叫んだ。

「いつまでたっても起きないからだ。こっちは何時間息子に付き合ってると思ってるんだ」と言いたかったけど夫の怒号で消えた。夫は激怒しながらリビングの引き戸を乱暴に開き、「叩くことないだろ」と言いながら息子のプラスチックの柵を部屋中にぶん投げ始めた。

「やめてよ!」と止めても聞いてくれなかった。息子はギャンギャン泣いていた。最後に夫が投げた柵が食洗器に当たり、食洗器が凹んだ。夫が無理やり開けたせいで引き戸は歪んで閉まらなくなっていた。

そのまま夫は全身を怒らせて出ていった。

呆然として泣きじゃくる息子を抱えて横になった。眠れはしなかった。もう本当に終わりだと思った。

 

六時になり、義母さんが来た。

「〇〇(夫)が来たよ。部屋で寝てる。あなたに殴られたって、殴ったのは許せないって言っていたよ」と言い、部屋を見て「あいつはあなたに当たれないから物に当たるんだよ」と言われた。

呆然とするしかなかった。私の味方って本当にいないんだと思った。

「家にはもう帰ってきたくないって、子供は一人でみてくれって言ってたよ。金ならいくらでも渡すからって。ねえ、よく謝って帰ってきてもらわないと。〇〇くん(息子)のためにも」と言われた。

この時の気持ちを思い出したくもない。私は本当に現代に住んでいるのか?と思うのが精一杯だった。頭が感情を起こすのを拒否しているような、本能が無理やり蓋をしたような感覚だった。

相談できる人は誰もいない。母は捨てた。義母さんには苦しみをわかってもらえないし、何かあれば夫の側につく。周りに友達もいない。というか結婚してから疎遠になったから腹を割って話せるような友達ももう思い浮かばない。

何があっても私を肯定してくれる人はどこにもいない。

 

でも、限界の時に息子を見るといつもニコニコ笑っていた。

私が悲しいのをわかっているかのように、そんなこと吹き飛ばすように、楽しそうに笑っていた。

「もういなくなってもいいかなあ?」と聞いて抱きしめた時も「うきゃー」と言って笑っていた。

その笑顔を見るとますます泣けた。

生きるのがこんなに辛いのに、この子がこんなに愛おしいなんて世界は残酷だと思った。

 

 

私の人生を変える出会いまであと一年を切っていた。

コメント

タイトルとURLをコピーしました