前回の記事はこちら
緊急搬送から2日経ち、私はだいぶ落ち着きを取り戻していた。
それどころか、前回の入院時とはメンタルの落ち込みが全然違っていた。
状況は以前より切迫している。絶対安静でベッドから起き上がることもほとんどできないし点滴の薬の濃度もマックスなのに、心は穏やかだった。
理由は病室に担当医が毎日来てくれたことと、
「札幌」だったことだった。
結婚してからずっと「また札幌に住みたい」「帰りたい」と思っていたのが叶ったのだ。
最悪とも言える状況で叶ったわけだが、病院は窓から札幌の国道が見え、ひっきりなしに走る車や遠くのビル群や沢山の人が歩いている景色が懐かしくて、看護師さん達の距離感も「札幌感」がある気すらした。
ああ、私は今までいかに水が合わないところにいたんだろうと思った。
こんな状態なのに懐かしさと穏やかさを感じている。
空気が合う感じがする。
余計なものが考えの中に混じらない。
それがこれほど心を穏やかにするとは思わなかった。
幸運なことに担当の先生とも気が合った。
経験豊富な50代くらいの先生で、毎日暇さえあれば病室に顔を出してくれた。
ズバズバと歯に衣着せず余計なことも言うので合わない人は本当に合わないだろう。
でも私は田舎でその辺には耐性がついていたし、上辺だけ事務的に話す先生よりよほどいいと思った。
猫をいっぱい飼っているとか海外旅行が趣味だとか色んな話をした。
「ご飯が食べられない」と言ったら
「うち、美味しくないからね」と言って笑わせてくれたり、
「僕は24週を越えた子なら生かしたことがある。まずはあと2週間を最初の目標にしよう」と言ってくれた。
今となっては24週でも全く安心ではないし、小さく生まれてしまった子を持つ親の苦労や心労は想像もできないけど、
当時の私には「まず2週間」と目標を与えてもらえたのはとても良かった。
ずっと、「出産まで」と言われていたから、「あと半年」「あと〇カ月」という考え方しかできなかったから。
食事もベッドから起き上がれなかったけど、「まずあと2週間」と思うことで耐えられた。
看護師さんたちも本当に良くしてくれた。
ただし、私の状態が予断を許さないのは変わらない。
安静の度合いというのは担当医の判断で変わるから同じ状態でも病院によって違うものだが、
私は担当医が比較的安静指示が緩く、シロッカー手術(子宮頚管を縛る手術)をしたというのもあって(物理的に子供が出てきてしまう可能性がシロッカーをしていない、できない人に比べれば低いということ)安静指示は最も重いものではなかった。
この時点ではトイレのみ3日目から歩行可。洗顔は4日目から可。お風呂はまだ不可。それ以外の時間はベッドから起き上がってはいけない。
この「起き上がってはいけない」は文字通りの意味で、ベッドの上で座るのもいけない。
安静指示が最も重い人はトイレも洗髪もベッドの上で、風呂は出産まで不可。
後から知ったが、そういう方が病棟に二人いらっしゃった。
そういう方々はどれだけ大変だったことか。
そうなるのが恐ろしくてたまらなかった。
ただ、当然私程度の安静でも憂鬱にはなる。
入院・手術当日は何故か感情が暴走して夜中に体を起こしたくてたまらなくなり、ベッドの柵を掴んで必死に「起き上がっている感じ」にして自分をごまかした。
とにかく体に力を入れてはいけないから横になっていても寝返りで「今力入ってないか?」とドキッとする。
でも大好きな札幌という土地と病院の皆さんと気が合ったことで何とかなっていた。
これ以上安静指示が悪くならないように必死だった。
しかし、また問題が起きた。
手術翌々日には夫は仕事があるので地元に帰ったため、
母が入院中の面倒を見てくれていたんが、
この母が入院4日目で面倒くさくなって愚痴り始めたのだ。
詳しくは
に書いたのでどんな会話があったのかはこちらを見てほしい。
入院する予定なんて勿論なかったので札幌には普通に2泊3日の荷物で来ていた。
だから母に部屋着やタオルやスキンケアや下着・靴下やちょっとした飲み物やフルーツなどを買ってきて欲しいと頼んだんだが、
母はこちらが頼んだ三倍くらいの量を買ってきた。
私の好みじゃない(完全に母の好み)下着十組以上、いかにもなパジャマが五着。私はTシャツとラフなルームウェアを頼んだのに。
入院中に身につけるものは敏感な私が心穏やかに過ごすのに大事なものだったので、夫にすぐに家から送ってもらった。
他にも頼んでもいないボトル型浄水器など色んなものを買ってきた。
まめに買い物に行き、毎日病室に来てくれた母。
それには感謝していたんだが、ついに「出費がすごい」と文句を言い始めた。
「そりゃそうだろうな」と思いながら面倒くさくなって「そのうち夫に金を送ってもらおうか」と言うと「それならいいんだけど」と言いながらもまだ不服そうにしている。
母の考えていることは手に取るように分かった。
私から何かを搾取することには慣れていても、私に何か与えて機嫌も取られなかったことはないから不機嫌になっているんだ。
今の私の状況なんてこの人には関係ないから。とにかく機嫌を取ってほしくて仕方がないんだろう。
それは気付いていたがそこまで構ってられない。無視しようと思った途端、とんでもないことを言い出した。
「子供が生まれるのはおめでたいことだけど、こんなに大変ならやってられない。お前はずっと寝てなくちゃいけなくて、まあ、大変だと思うけど一生に一回くらいいいんじゃない?私なんて毎日毎日忙しくて、お前の世話までしなきゃいけなくて、私こそ1週間くらい入院したい」
本当に耳を疑った。
安静生活がどれだけ辛いか、自分の命じゃなくて子供の命が失われてしまうかもしれない状況で毎日毎日恐る恐る生活しているのがどれだけ辛いか。
「バチが当たったんじゃないの?お前は勝手に結婚して勝手に遠くへ行って、結納金もなかったでしょ?じいちゃんとばあちゃんが大変な時も1回来たきりで、弟が大変だったことも知らなかったでしょ?うち、お金がなくて大変だったんだよ。お前がいないから平和だったけど。墓参りにも2年に1回くらいしか来ない。うちのことをほったらかしだったから」
母は私がいつか不幸になることを望んでいた。
目の前の自分によく似た女性が不幸になっていくことでしか自分の不幸を慰められない。
口角を上げて目の前のベッドに横たわる女性がやっと不幸になったと爽快感を噛みしめているのがよくわかった。
実家から離れて10年が経っていて、「母の言うことは正しいんだろう」という思い込みから解放されていた私が本格的に母を諦めた瞬間だった。
もう、この人に搾取されるのは終わりだ。
そう強く思った。
今まで母に「口ごたえ」する時はどれだけ自分を奮い立たせても手が震えた。
唇も、声も震えていたと思う。
幼い頃から押さえつけられたトラウマなんだろうと思っていた。
だから仕方がないんだろうと思っていたけど、
ここで母にハッキリと言うことができた。
「ママは世間の人の苦労を何も知らないんだって。だから自分ばっかり辛いって言うんだよ」
声も手も震えなかった。
目も落ち着いているのがわかった。
母は当てが外れたような顔をしていた。
ああ、私は今までこの人の言うことに理があると思っていたんだ。
この人のことが恐ろしいし、親として尊敬もしていたんだ。
どれだけおかしいと思っていても、心の奥底では「でもママの言うことなんだから正しいんじゃない?」「私が間違っているんじゃない?」「そんなこと言ったらだめだよ」と私の中の私が言っていたんだ。
力があるものに歯向かうのは恐ろしい。小さな子供でも、小さな子供だからこそ本能的にそれを知っていたんだろうか。
恐ろしいから、本当は理詰めで母を徹底的に攻撃することも今までもきっとできたけど上手くできなかったんだ。
あの時も、あの時も、「そうは思ったけど母が正しかったんじゃないか」というわずかな後悔はまやかしだったんだ。
今、全く恐ろしくない。尊敬もしていない。
私の中で「母」が「愚かな中年女性」になった瞬間だった。
私が苦しんできた間、母は私が苦しんでいたことも知らない。
それどころか、それを肴に自分の不幸を慰めてきた。
この人にもう配慮は必要ない。
「もういいや、お前のこと、お義母さんに言う。こうしてバカにされましたって言うわ」
母はいつもと変わらず「私は苛立っています」というポーズで私に引導を渡そうとしてきた。
これが引導だと思っているのか。愚かだ。
「言えばいいよ」
「本気だよ」
「言えばいい。お義母さんと私は信頼関係があるし、あの人は間違ってることは間違ってるって言うからね。お義母さんはママが間違ってるって言うよ、多分」
母は驚いていた。「お義母さんに言わないでー」と私が泣きつくとでも思っていたんだろうか。
こんな人間に搾取されていたんだなと私はとても冷静だった。
その私の冷静さに母が面食らっているのがよくわかった。
母はこの愚かさゆえ虚勢以外何も持っていない。
痛みも醜い本音も恐る恐る見せて怒られたり抱きしめられた経験がないんだ。
常に人にはカッコ悪い自分を見せたくなくて、ちぐはぐな着飾った姿で余裕なように見せているつもり。
本当に、裸の王様だ。
ごめんね、私はもうあなたに寄り添えない。
私にも全てを愛してくれる人なんていないけど、自分を大切にすることにした。
世間的に何をもって自立かなんてわからないけど、母の考え方から完全に離れて自分の考えを優先したこの時、私は完全に自立したと思う。
母はそのままほとんど喋らず帰り、その後二度とお見舞いに来ることはなかった。
この話を夫と義母にしたら2人とも怒ってくれた。
夫は母に手切れ金を渡すとまで言った。
私はとてもせいせいしていたんだが、このことはさすがに体に大きな負荷になったらしい。
翌日、トイレに行ったら出血していたのですぐに内診をしてもらった。
「また赤ちゃんの袋が出ている」と言われた。
なにそれ?縛ったんじゃないの??と確認したが、
「縛ったけれどゆるんだのか、隙間から出るように袋が出てきている。もう一度縛りなおさなくてはいけない」と言われた。
さすがに涙が出てきた。
二度目の手術なんて嫌すぎる。あんなに頑張って安静にしていたのに。
初めての事態でもパニックと恐怖で辛くてたまらないが、二度目は何があるかわかっているからもっと怖い。
またあの下半身麻酔、尿管、トイレにも行けない、起き上がれない。
しかも二度目。安静指示は更に厳しくなるに違いない。
そもそも赤ちゃんは大丈夫なのか。こんなにトラブルだらけでちゃんと産まれてきて健康に育てられるのか。
私なんかのところに来たからこの子もこんなに何度も命を危険にさらされている。
泣きながら夫に連絡した。
今日は手術室が埋まっているけど緊急だから空き次第手術すると言われた。
いったい私の体はどうなっているんだ。どうしてこんなに妊娠に向かないんだ。
前回はパニックのあまり逆に冷静になれた部分もあったけど、悲観的なことを言って泣き続ける私に看護師さんたちもかける言葉がないみたいだった。
あとから聞いたことだけど、縛った後にまた赤ちゃんの袋が出てきた例(胎胞脱出)はこれまで数件しかないらしい。本当に本当に稀なことなのだ。
私も後に調べたけれど二度もあった体験談は見つけられなかった。
手術室が空くや否やすぐに手術した。
今度はメンタルの問題も大きかったのか麻酔の効きが良すぎて気持ち悪くなった。嘔吐して頭痛が止まらず、背中がむずむずしてたまらなかった。
これからが不安で怖くて仕方がなかった。
「大丈夫。私たちは色んな人を見ているから」と手を握ってくれた看護師さんの言葉が救いだった。
複数のモニターと管につながれて眠った。
こんな夜はもう二度とこないでほしいと強く願った。
次の記事はこちら
コメント