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実母との関係が最悪だった私は、子供も欲しくはなかった。
というか、私のような育ちをしている者は子供を望んではいけないと思っていた。
親子の愛がよくわからない私が、正しく子供を育てられるわけがない。
泣きわめいて言うことをきかない子供を愛せるだろうか。
もしもかわいくなくなってしまったら。せっかく産まれてきてくれたのに愛せなくなってしまったら。
そう思って踏み出せなかった。
でも周りの人は理解してくれない。
「産めば変わるよ」「自分の子は可愛いよ」と何度も半笑いで言われた。
「じゃあ私ができなかったら代わりに育ててくれるの?ダメだったらその言葉にどう責任取ってくれるの?」と何度も思った。
「お前たちのせいで私の人生はめちゃくちゃだ」
「産むんじゃなかった」
母に何度も言われた言葉が怖くてたまらなかった。
私も自分の子にそう言ってしまうかもしれない。
私の人生がめちゃくちゃになる。子供を産んだら人生が終わる。
そう思っていた。
でも。
なぜだろう。
追い詰められてもう本当にどうしていいかわからなくて30歳を過ぎた時。
「ああ、このままの人生がこの後40年続くのは耐えられないな」と思った。
この環境に大きなテコ入れをしたい。
私、実際子供ができたらどうなるんだろう。
ひょっとしたら何もかも上手くいくんじゃないだろうか。
なぜか突然そんな考えが湧いてきたのだ。
今思うと本当に都合のいい現実逃避だったんだが、そんな私の逃げ癖が初めて良く作用したと思っている。
そして30歳の時に妊活をはじめ、31歳の1月に妊娠がわかった。
そこからは本当に本当に大変だった。
妊婦さんってなんかみんな普通に過ごしているように見えるし、悪阻というものは本当にひどいとはよく聞くけど悪阻を越えれば大丈夫だろう。普通に過ごせるんだろう。大人としての時間を過ごせる最後の時期を満喫しようと思っていた。
けれど。
1月初旬に妊娠がわかり、1月末に私は入院していた。
まだ悪阻も始まっていなかった頃に出血して切迫早産と診断された。
その後出産まで私の妊娠期間は安静との戦いだった。
1月末からまず10日の入院。この時点ではまだ出来ることがないので本当にただ安静にするためだけの入院だった。
出血も入院時以降出ることがなく、その後も安静解除ではないがとりあえず家に帰ることができた。
あんなに嫌だったはずの家だけど、病院に比べれば勿論最高だ。
愛する猫たちと久しぶりに会えて、外に出られることが嬉しかった。
でも散歩などは許されない。
トイレと食事以外はベッドから起きてはいけないと言われていた。家事もできなかった。
夫が家事ができたので任せることに遠慮はなかったが、私はほこりが気になる強迫性障害だ。
その症状は結婚後も変わらずあり、私を悩ませていた。
安静指示が出ているのにベッド周りの掃除と手で触れるのがやめられない。
毎日毎日できるだけ動かないように気をつけているのに動けないからこそ気になってたまらない。
たった5分ほどの掃除ではあってもどれだけ子宮と胎児に負担になっているか自分ではわからない。
「私何やってるんだろう」と泣きながら頭を殴ったり、必死に深呼吸をして強迫観念を逃していた。
でも、やってしまってもいた。
そんな状況なことを主治医に話して、妊娠中も私は鬱と強迫の薬を服用していた。
胎児に副作用はないわけではないが、副作用が出る可能性はかなり低いこと。
母体の心身のバランスを取って妊娠を継続させることを優先させた結果だった。
そうして自分でも出来るだけ努力はしていたが、また出血し入院を余儀なくされた。
今度は24時間子宮の収縮を抑える薬を点滴されての入院生活となった。
(この後の入院生活は全てこの24時間点滴あり)
2月下旬に入院し、結果的には4月頭までの入院となった。
この間も、本当に辛くてたまらなかった。
悪阻がひどい期間入院していられたのはラッキーとも言えるかもしれないが、食べたいものが食べられるわけではないのでほとんど食べられない時期もあった。
あまり吐くことはなかったけれど毎日頭痛とだるさと気持ち悪さとめまいに悩まされた。
夫にフルーツを買ってきてもらって冷蔵庫に入れてちびちび食べていた。
家にいたらゼリーやプリンも好きなだけ食べられただろうし、冷麺とか素麺なら食べられたかもしれないのになあと何百回思ったか知れない。
入院中はとにかく鬱がひどかった。
病院は綺麗だし食事も美味しいし看護師さんも優しかった。
けれど主治医の巡回が週一度で、その時もほとんど話はできなかった。
状況が変わっていないから主治医としては何も言えないんだろうと今なら冷静に思うけれど、妊娠中はただでさえも冷静さが欠けがちだし入院していると余計正気ではいられなかった。
大雪の日も病室から見て、通院して帰る人を見て、
お見舞いに来てくれる夫に帰りたいと泣いて、毎日猫の写真を送ってもらった。
病室で雪が溶けていくのを見て、道路が出て、少しずつ緑が出てくるのを見た。
毎年春になった匂いの中でウキウキしていたのに、ここでは何も感じられない。
私だけ世界から切り離されているみたいだと思った。
毎日のように泣いていたし、正直子供が可愛いなんてこの頃は全然思えなかった。
4月になり、入院期間も1ヶ月を過ぎて、主治医と交渉してなんとか退院できることになった。
このまま9月の出産予定日まで入院しなければいけないかと怯えていた私は本当に嬉しかった。
まだ週に一度くらい出血するのは続いていたため、絶対に油断しないようにと言われて退院してきた。
入院中人の目があって強引に押さえつけられていた強迫は入院前と比べるとかなり良くなっていて、今度は自宅でもかなりしっかりと安静に過ごした。
そして4月下旬。安定期に入った。
待ちに待った安定期。
出血もしばらく無く、主治医も安定期に入ったなら安静も少し緩めてもいいでしょうと言ってくれた。
3ヶ月ぶりに普通に起き、テレビを座って見て、少し家事もやって、座って本を読み、猫と遊び、気分転換に家の周りを散歩できるようになった。
スーパーなどの近場なら自分で運転して買い物もできるようになったし、家族同伴なら少し遠出も許可が出た。
そこでもう半年帰っていなかった札幌にGWに帰ることにした。
とはいえ私は帰省しても実家に帰ることは無くなっていたし、夫同伴だったのでホテルをとって札幌中心部で少し買い物をして、劇団時代の仲間とご飯を食べに行った。
楽しかった。本当に本当に楽しかった。こんなに楽しかったのは妊娠してから初めてだったし、私が普通に享受しようと思えばできたことがこんなにあって、こんなに有難いものだったのかと痛感した。
楽しくて嬉しくて夫も久しぶりに会った劇団の仲間と飲めたのが嬉しくて飲み過ぎてしまった。
私は勿論飲まなかったが楽しかった。久しぶりの外出で少し疲れたなあなんて思いながらシャワーを浴び、寝た。
翌朝、遅く起きた。夫はまだ寝ていた。
トイレに行くと出血していた。1ヶ月ぶりのことだった。
一瞬で血の気が引いた。でも熟睡している夫を起こすのもなんだか忍びなくて、LINEで一文を残して一人で市電に乗って事前に調べていた病院に行った。
呑気なものだった。
歩いて市電に乗り、市電の駅から5分ほど歩き、普通に待合室で待って、普通に呼ばれた。
先生も呑気に「あー出血ですか。安定期?診てみましょう」くらいの感じだった。
けれど、内診台に上がって診た瞬間、先生が「あ、ダメだ」と言った。
聞き返す間もなく、すごい勢いで先生が看護師さんに救急車の手配を指示していた。一気に院内に緊張が走った。
「何ですか?」と私が起きあがろうとすると、
「起きないで!!絶対動かないで!!今、赤ちゃんが入っている袋がもう外に出そうになっている」と言われた。
なにそれ。
なにそれ。袋?何?
と錯乱したけど妙に冷静で、
「どこに行くんですか?」と聞いた。
市内の大きな病院の名前を告げられ、そこならNICUもあるし切迫早産にも強いから今からそこに緊急搬送しますと言われた。
「夫に連絡してもいいですか」と聞き、
看護師さんがバッグの中からスマホを出してくれた。
夫に電話をすると飛び起きたようだった。今から向かうから直接搬送先に来てくれと言い、ストレッチャーで救急車に乗せられた。
これからどうなるんだろう。
とにかく動かさないようにと救急隊員の方も細心の注意を払ってくれた。
只事ではないのは嫌というほど伝わってきた。
病院につき、処置室に入れられた。
すぐに尿管を入れられ、1時間後に手術だと言われた。
何が何やらわからなくて合流した夫と状況を理解しようと必死だった。
夫が連絡したらしく、母も来た。
ここでこの後札幌での主治医となる先生に説明を受けた。
赤ちゃんが入っている卵胞という袋が、通常は子宮頸管が閉じているから出ることはないんだが、私はその子宮頸管が正しく機能していないらしく、卵胞が出そうになっていること。
いつ出てもおかしくなく、その場合は現状(妊娠20週)では赤ちゃんを生かすのは絶望的だということ。
よって、今から子宮頸管を縛る手術(シロッカー手術)をするということ。
特急で同意書を書き、すぐに手術室へ連れて行かれた。
この時夫はエレベーターが閉まる直前に、先生に
「ダメだったらごめんね」と言われたらしい。
のちに聞いたが、先生はこの時点で8割はダメだと思っていたそうだ。
けれど手術前と手術中(局部麻酔なので意識はあった)はふざけたり、明るく振る舞って緊張させまいとしてくれた。
勿論私はそれどころじゃないので半泣きのまま処置を受け、局部麻酔でも気持ちが悪くて吐いたり、色んなことを考えて頭の中はぐちゃぐちゃだった。
手術は成功した。
妊婦さん用のICUに入院することになった。
24時間モニター、24時間点滴、術後なので尿管も入ったまま。
下半身が麻痺して色んなことが起きすぎて不安で怖くてまた入院になるのが嫌でたまらなくて夜中になるほど泣けてきた。
私の切迫早産との戦いはここからが本番だった。
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