人生のどん底で推しに出会ってフォロワー7000人になった私⑥ 切迫早産安静入院後編

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人生のどん底で推しに出会ってフォロワー7000人になった私⑤ 切迫早産安静入院中編
前回の記事はこちら緊急搬送から2日経ち、私はだいぶ落ち着きを取り戻していた。それどころか、前回の入院時とはメンタルの落ち込みが全然違っていた。状況は以前より切迫している。絶対安静でベッドから...

二度目のシロッカー手術から安静指示はより強くなった。

私も心配でたまらず、起き上がれないストレスで電話で夫に当たり散らしたこともあった。

 

個室の病室まで札幌の友達がお見舞いに来てくれ、義母さんや夫が電車で数時間かけてきてくれたり、札幌に住んでいた義理の妹さんは週に一度来て洗濯をしてくれた。

看護師さんたちとも親しくなったし、主治医も毎日来てくれた。

入院生活では人と接している時間なんてほんの一瞬でさみしくて仕方ないけれど、みんなの力もあってなんとか時は流れ、トイレに行けるようになり、洗顔ができるようになり、座って食事をとれるようになり、シャワーも浴びられるようになった。

二度目の手術以降の経過は割と良好で、主治医が言ってくれた最初の目標であった二週間を越え、一般病棟に移ることなった。

 

一般病棟に移ってからも四人部屋で気を使いながらの生活はなかなか大変だったし、廊下側のベッドだったから日が当たらなくてちょっと不健康だなあなんて思ったけれど、少しずつ点滴の薬の量も減らせてきた。

一般病棟に移ってからは日に一時間くらいは座って読書をしたりもできていた。

 

この頃子供の性別が男の子だということもわかり、これで服を用意できるとか、どんなおもちゃにしようとか、楽しいことを考えることもできるようになった。

 

長い入院生活で、今後も安静は続くだろうからどう体力を戻したらいいか、産後のお腹のたるみはどうしたらいいか、骨盤を戻すにはどうしたらいいか、経験豊富な看護師さんに沢山聞いた。

看護師さんたちはよく「こんなに何度も早く出たがったんだから、絶対わんぱくな子だよ」と言ってくれた。

そんなことあるのかと思ったけど、その通りだった。

 

点滴を一番低い薬の量にし、やっと抜けた時は感動した。

一カ月半刺さり続けた針の痕はその後一年くらいうっすら残っていた。

荷物を少しずつ家に送り、保険の手続きもして退院の日も決まった。

 

退院の前日に「ママからWi-FiとiPad取り返せって言われた」とばつが悪そうな顔で弟がきた。

入院した時実家から借りていたから、どう返却しようかと思っていたので良かった。

弟は私が好きだからと缶コーラを買ってきてくれた。

実家にいた頃の嗜好の知識のまま。そんなところがなんだか愛おしかった。

弟は免許を取っていて、車を買うのが夢だから仕事を頑張っていると言っていた。職場でも下っ端だけどみんなよくしてくれるらしい。

昔から人と関わるのが苦手で、頭が悪くて、何度も騙されてきた弟が頑張っているのが嬉しかった。

ばあちゃんは認知症になってしまったので施設にいるけどそれなりに元気だし、じいちゃんも一人で呑気にやってるらしいと聞いた。

 

退院前に友達も会いに来てくれた。

義理の妹さんは退院まで毎週洗濯をしてくれた。

 

結局主治医は毎日病室に来てくれた。

退院の前に「実は最初にあなたを診た先生と僕は仲がいいんだけど、あの先生はもう無理だと思っていたって」と教えてくれた。

「後から会って、あの患者さん今うちの病院にいて、もってますよって言ったらすごく驚いてたよ。こんなに大変な人はもうたくさんだ」と笑っていた。

感謝してもしきれない。

夫が迎えに来てくれて退院した。お世話になった看護師さんが数人でエレベーターが閉まるまで見送ってくれた。

入院生活なんて辛いことばかりなのに、なんだかもう一つの家のような感覚になった。

家に帰って約二か月ぶりに猫達に会い、ゆったりと好きなものを食べて好きな番組を見てのんきに過ごす日々に戻った。

お腹の張りには引き続き注意が必要で、出産まで張り止めの薬は飲み続けなくてはならない。

以前の病院では私のような妊婦を受け入れるのは不可能だったので、転院し、また新しい先生との付き合いが始まった。

 

けれどやっぱりなかなかうまくはいかない。

退院して約一カ月後の七月、定期健診の問診でお腹の張りが気になることを伝えると入院することになった。

当時一時間に数回お腹が張ることがあったが、「それはもはや陣痛だ」と言われた。

 

また入院だとショックだった。

でも今回は家に帰って荷物をまとめてくる猶予を与えてくれたので一度家に帰り、猫たちを抱きしめてすぐに荷物をまとめて入院した。

 

しかも、入院のために病院に戻る車の中で弟からLINEがあり、実家の犬が亡くなったと知らされた。

高齢だし、持病もあった。でもこんなタイミングでと呆然としてしまった。

あの子のぽっこりしたピンク色のお腹や、甘ったれでわがままでいたずらな瞳を思い出していた。

何故札幌に行って真っ先に会いに行かなかったのか。

行けたのに。母に会いたくないというつまらない気持ちなんて押し込めて、最後にもう一度抱きしめたかった。

今度の病院はずっと四人部屋で、看護師さんたちはよくしてくれたし先生も丁寧だったが、札幌の病院の時のような「ホーム感」はなかった。

ただ土地が違うだけでこんなにストレスが違うのかと我ながら驚いた。

また二十四時間点滴の日々が始まった。

入院生活は淡々としていて、弟から犬のお骨の写真や、どんな風に見送ったかを聞いた。

あの子のことを考えながら、どこか空虚な時間だった。

 

今でもあの子の名前を私はメールアドレスに入れている。

入院生活は三週間ほどで終わり、家に帰れることになった。

気づけば臨月まであと一カ月と少しだった。

臨月になればいつ生まれても大丈夫なので安静は解除になる。買い物も、外食もできる。

あと少し。本当にあと少しだ。

 

どうなるかわからなかったから怖くて買えなかった子供の服やおもちゃや寝具を通販で買って、実践的な育児方法にやっと目が向き始めた。

でもこの時の私は妊娠期間が辛すぎて「産めば終わり」と思いすぎていた。

だから育児の知識もどこかオシャレなものばかり収集してしまっていた。

親になる心構えの本や、赤ちゃんがいても整理整頓して過ごすにはどんな家づくりをするかなど。

「産んでからがはじまり」と一か月半後に思い知ることになるんだが。

更に。

更にだ。

臨月前の検診を来週に控えたある日、夫と出かけていて夫が買い物している間にあまり歩けない私はカフェで一休みしようとカフェに入った。

注文を済ませ、席に座った途端、

椅子が壊れた。

 

椅子の足が外れて私は床に叩きつけられた。

周囲は騒然となった。

そばにいた中年女性が「妊婦さんでしょ?!大丈夫?!」とすぐに駆け寄ってくれた。

大丈夫かどうかなんて私が聞きたい。私は普通の妊婦じゃないんだよ、ここまで信じられないくらい色んなことがあって、やっとの思いで乗り越えて、絶望して絶望してやっとここまで来たんだよ。どうしてこんなことになるの?と

なんだか悔しくて涙があふれた。

 

すぐに店員さんが来てくれたけど正直それどころじゃない。すぐに夫に電話したけど出なかったので待ってられず、LINEだけしてタクシーに乗り込んで病院に向かった。

不幸中の幸いというか、病院とは車で十分くらいの距離だったし、車内で病院に事情を説明していたのですぐに診てもらえた。

 

「大丈夫ですよ」の声を聞いて本当に安心した。

「それにしても信じられない。そんな店があるなんて」と先生も看護師さんも一緒に怒ってくれた。

 

病院の出口に降りると蒼白の夫が立っていた。

彼も「なんでこんなことになるんだ!」と怒っていた。私もそうだ。店に対する怒りも含まれていたけど妊娠から今日に至るまでのありとあらゆる不幸にもう堪忍袋の緒が切れた。

二人で車の中で行き場のない怒りを爆発させながら家に帰った。

その後も張りが再発したらと不安な数日を過ごしたが何とか何も起こらず時間は経っていき、ついに臨月になり、出産方法と出産予定日が決まった。

私はシロッカー手術をしているので縛っている糸を切らないといけないし、そもそも通常分娩ができるような経過でもないので帝王切開になった。

 

 

2019年9月9日。

息子の誕生日になる日。

後から知ったが、「999」は「エンジェルナンバー」と呼ばれ、

「今までの苦しみが終わり、新しい物語が始まる」という意味らしい。

息子の存在はまさに私にとってこの通りだった。

彼は今までの私の下らない人生を終わらせて、新たな人生を歩むために必要なものを沢山くれた。

 

私の天使に会えるまであと一カ月を切っていた。

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