「ああ、いいことなかったな」
先日、自分の半生を振り返る機会があって出てきた言葉がこれだった。
推しに出会うまでの私の人生、本当にいいことなかった。
結婚して、かわいい息子に恵まれて、夫の収入で暮らせて。
何の不満があるんだと思う人もいるかもしれない。
でも、それらは当時の自分では「いいこと」だと認定できていなかった。
実際、今も結婚は継続していて、かわいい息子はいて、生活費は夫の収入で賄っている。
けれどこの前後で大きく違うことがある。
推しと心を許せる人の存在とライフワークの有無だ。
私にとっては、これらが人生の幸不幸を左右する上で、とても大きいらしい。
推しと出会ったのは2021年1月、
BTSのDynamiteのMVを初めて見て、
バスケットコートに現れた色白で童顔な彼を初めて見た時の衝撃は忘れられない。
ずっとずっと探していたものがここにあったと思った。
今でもなぜあの時あんな感覚になったのかはわからない。
でも、あの瞬間、私の人生のチャンネルがガチャリと音を立てて変わった。
まさに落雷。
あれが、33歳にして「私が主役の人生」を歩み始めた瞬間だった。
それまではどんな人生だったか
一言で言うと「怒り」に満ちていた。
両親が14歳の時に離婚し、母に引き取られた私と弟。
養育費代わりに払うと言っていた家賃を1ヶ月で払わなくなり、父は逃げた。
それから母は大変な思いをして私と弟を育てた。
祖父母も年金をほとんど私たちに使いながら、一生懸命育ててくれた。
最初に思い出せる怒りは、私たちを捨てた父に対する怒り。
そして気がつけば、かつてはあったはずの母の愛情を感じることができない生活になっていた。
「お前たちのせいで私の人生は終わりだ」
「産まなきゃよかった」
「お前がいなければママは幸せだったのに」
「毎日家政婦みたいにこき使われて、死にたい」
母はほぼ毎日こんなことを言っていた。
そんな母に高校生だった私できることなんてわからなかった。
弟は私の私物を売ってお金を作って毎晩遊び歩き、何度も補導され、学校にも行かなくなった。
祖父母は母に怒鳴られるのに怯えて、部屋に閉じこもるようになった。
必然的に家にいるのは私と母になるので、私は毎日母のこんな言葉を聞いて、「生まれてこなきゃ良かったな」と罪悪感を感じていた。
同時に、この環境に、誰も助けてくれないことに怒りを感じていたし、
母に対しても、弟に対しても、祖父母に対しても、いつも怒りを感じていたし、私も家の中で暴君のように振る舞うことも多かった。
奨学金を満額借りて私立高校から私立大学に行っていた私の学費は更に家計を圧迫した。
(この生活で私立は無理だからやめろと誰か大人が母に言ってやれって感じなんだけど)
母は常に苛立ち、お金がないと嘆き、家族全員精神状態は限界だった。
トイレやシャワーに聞き耳を立てられて「水を使いすぎだ」と怒鳴られたりした。
更に、私が大学生になったあたりから、やたらと私に対して「いやらしい」と母が言うようになった。
「そんな格好して、男でも誘いに行くの」
今思うとむしろダサいし保守的な服装だったと思うんだけど、スカートを履いているだけでこんなことを日常的に言われた。
「笑顔が醜い、臭い、肌が汚い、太っている」とも常に言われていた。
その母の態度は「女性らしくすること」「露出」への嫌悪感を私に植え付けた。
「きれいにしている人はいやらしい人」
「美人は嫌い。あいつらばかり恩恵をうけてずるい」という怒り。
「笑うな、汗をかくな、デブ、肌を出すな、迷惑だ」という強迫観念は、ごく最近まで続いたし、実は今もちょっとある。
あと、当時の母に繰り返し言われていたことは「しゃべるな、うるさい」ということだった。
私は今でこそマインドコーチとして、講師として、しゃべることを職業にしている。
インスタライブやラジオでもしゃべることで愛していただいているので、輪をかけておしゃべりだし、そこに個性と才能があったことはわかっている。
でも、論理的に筋道を立てて議論することが好きな私の話は、感覚派で難しいことは苦手な母が聞きたい話ではなかった。
だからとにかく毎日のように議論したがる私は本当にうるさがられた。「あんたがしゃべると迷惑だ」とよく言われていた。
大学は、3年でいよいよ学費が払えなくなって退学した。
20歳で実家を出て札幌市内で1人暮らしを始め、
札幌の小劇団に入って演劇に没頭していた。
4年間プライベートの全てをかけて活動し、退団した後は営業職につき、
そこでメキメキ才能を発揮して店舗で営業成績1位になった。
推しと出会う前では、この頃が一番楽しかった。
お金も時間も余裕があり、自由な日々だった。
でも、この頃から付き合いが始まったのが強迫性障害だ。
毎日毎日3〜4時間、仕事を終えてから掃除に費やす日々。
病院に行っても治らず、その後10年以上この症状に悩まされることになる。
けれど、この強迫性障害を入れても、この頃は本当に良かった。
実家に比べたら本当に天国だった。
何時に帰ってきて、どれだけ電気を使ってもお湯を使っても、どんな服を着てもどんなメイクをしても誰にも何も言われない。
けれど、この頃大学時代から付き合っていた現夫と結婚する話が持ち上がり、
(プロポーズされたんじゃなく、「そろそろ結婚するんじゃないの?」と周りに言われるようになってなんとなく考え始めた)
「生まれてからずっと札幌に住んでいるし、仕事も飽きてきたし、このままここにいても生活変わらないな、いっちょテコ入れするか」と思って結婚した。
結婚すると、夫の家業を継いで函館の近くの田舎町に引っ越すことは決まっていた。
まあ、田舎暮らしもいいでしょ、と当時は軽く考えていた。
この田舎暮らしが人生で最も辛い時期になるとも知らず。
結婚して最初に驚いたことは、「常識が通用しない」こと。
他人が平気でタメ口で話かけてきて、平気で玄関のドアを開ける。
それに対して文句を言うと、「後から来た奴が文句を言うな」とばかりに夫になじられた。
嫁ぎ先はもうすでに完璧にコミュニティが形成されていて、私は完全に余所者。
「私の入る隙が全くないコミュニティ」だった。
都会で、情報の新陳代謝が活発な札幌に比べ、
数年間ビルの広告は同じ、
若者の利益、楽しさはものすごく優先順位が低い。
おしゃれさよりもお年寄りの過ごしやすさを優先させた街づくり。
全く楽しいことがなくなってしまったのだ。
夫の敷地から隣の家に行くには徒歩5分。
最寄りのコンビニまでは徒歩30分。
車がなければ生活ができないが、車があったとしても行くところなんてスーパーか100均くらいしかない。
知的好奇心、美しいものを見て心を豊かにしたい、それを生かしたい、という欲求を満たすものは生活の中にひとつもない。
「この状況が辛い」ということも、彼らの常識の外の話なので取り合ってもらえない。
外にコミュニティもないので、話せる人は夫か義母さんしかいないが、2人ともそもそも私と話題が合わず、私の話に興味がないので、どんなに話してもちゃんと聞いてもらえない。
話したことも忘れられる。
ある意味、母と暮らしていた時よりも辛い。
母と暮らしていた時は家の外には楽しいこともあった。
でも、ここは家の中にも外にも、楽しいこと、心踊ることなんてひとつもない。
誰にも理解されない。
あまりにも辛かった。
何とか慣れよう、我慢しようと努力を重ねたが、
楽になることは全くなかった。
夫の家業を手伝うために事務をやったり現場に出たりしていたが、全く興味のない仕事だし、そんな環境の中で張り合いもやりがいもないので、毎日遅刻していたしとにかく仕事ができなかった。
そんな生活に我慢できなくて、何度か1人で海外旅行に行ったりした。
旅行中は本当に楽しく、命が戻ってくるような感覚があったけど、帰ってきたらまた、ジメジメとした生活が続く。
正直、金銭的な余裕はあったけど、お金はあっても使えるところがない。
友達も1人もできない。誰とも楽しく話せない。
何をやっても役立たず。楽しいことなんてひとつもない。
ここでも出てきたキーワードは「怒り」と「しゃべることへの渇望」だった。
実家にいた頃と状況は違うけど、私はまたしてもしゃべることを封じられ、怒りの中にいた。
いや、実はこの頃は怒りを通り越して、何も感じなくなっていた。
毎日毎日諦めの中にいた。
だからこそ、札幌に帰ろうということも選べなかった。
「札幌の生活がダメだったから結婚してきたのに、頼れる親も親戚もいないのに、帰ったって仕方ない」
「それならとりあえずここにいたら生活は保証される。どれだけ辛くても生活できないよりいい」
と自分を誤魔化し続けた。
そんな生活は7年続いた。
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