推しと私③ 夜明け前が一番暗い

推しと私
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合わない土地での結婚生活で、様々な症状が発生した。

蕁麻疹、慢性的な体調不良、意欲の低下、突発的に泣きそうになる…

「鬱と適応障害」と診断された。

 

元々持っていた鬱と強迫性障害に加え、

新たに加わった「適応障害」。

精神科で様々な治療・カウンセリングを受けたが、なかなか改善することはなかった。

 

私は必死に治療に励んだが、

内心「こうなったのは夫の責任なんだから、お前もうちょっと私に何かしろよ」

「一言でも優しい言葉をかけろよ」という思いと怒りで満ちていた。

 

でも、そう思っている間は与えられないもの。

 

私は頑張っていた。

治療も頑張っていたし、毎日慣れようと頑張っていたし、

毎日ご飯も作っていたし、家をきれいにしていたし、猫の世話もしていたし、

全然興味のない健康や天気や農作業の話やご近所の人の話や事務の話にも頑張って乗っていた。

 

 

でも、何ひとつ報われない。 

たった一言、「頑張ってるね」「あなたがいてくれてよかった」

「愛している」と言って欲しかっただけなのに。

 

そして気がついたら私は30歳を越え、結婚して5年が経っていた。

 

 

いよいよどうすることもできなくなった私は、また「テコ入れ」を考える。

ここでの何の張り合いもない生活を変えるには、もう子どもしかないと思った。

でも、私は母との関係が悪かったため、子どもを持つのが怖かった。

「産んでみてかわいがれなかったらどうしよう」

「きちんと愛情を注げなかったらどうしよう」

「母のように子どもを憎み、罵倒するようになったらどうしよう」

そう思っていたし、小さい頃から「お母さん」というものに憧れもなかった。

私は一生子育てに縁がないんだろうなと思っていた。

 

でも、もう本当にどうしようもない。

私の人生を上向かせてくれるのは子どもしかない。

 

そして、無事妊娠した。

けれど妊娠生活も一筋縄ではいかない。

 

もともと子宮筋腫や卵巣嚢腫など、子宮に病気があった私は妊娠2ヶ月で切迫早産と診断され、

1ヶ月間入院をした。

 

「このまま病室から半年出られないかもしれない」という恐怖と闘いながら何とか一旦退院するも、

安定期に入った頃医師の了承を得て札幌に帰省して友達に会いにいったら、

出血し、緊急手術。そのまま札幌で1ヶ月半入院となった。

 

この手術の直後、母が面会に来て色々世話を焼いてくれたのだが、

この時に決定的な喧嘩をして、本格的に絶縁をした。

 

この件に関してはこの記事で↓

 

 

それから入院は続いたわけだが、

その間、病室の中なのに、ものすごく安心感があった。

「ああ、この土地は私をいじめない」

「話が通じる」という安堵感がすごかった。

逆に、入院生活ですらそんなことを思うなんて、私は今までどれだけ我慢をしてきたんだろうと思うと泣けてきた。

 

誰かに具体的にいびられていたわけではないけれど、

「土地と波長が合わない」「土地の人と話が合わない」ということの、

じわじわと首を絞める息苦しさから解放されて、札幌での入院生活はまあまあ楽しかった。

それから退院し、家に帰り、その後また2週間くらい入院するも、

なんとか38週まで持ち堪えることができ、帝王切開で出産した。

今までの入院生活の大変さに比べれば、帝王切開の痛みなんて本当に何でもなかった。

 

産まれてきてくれた息子を初めて見た感想は

「思ったより大きい」と

「本当に人が入っていたんだ」だった。

 

過酷な妊娠生活がやっと終わったという気持ちが大きくて、

「かわいいい〜〜〜〜〜〜♡」どころではなかった。

 

すぐに息子は看護師さんに連れて行かれ、腹を縫合され、病室に戻った。 

 

 

そして翌日から怒涛の育児が始まる。

入院中の育児についてはこちら

退院し、夫との育児が始まるも、もともと夫婦関係が良くなかったし、

妊娠中も何度も離婚寸前の喧嘩をしていたから、育児は過酷を極めた。

 

今思っても後にも先にもあんなことがないので本当に不運だったとしか言えないのだが、

息子が1〜3ヶ月くらいの時期、夫はやたらと出張が重なり、家にいない夜が多かった。

2時間おきに起きて1時間は泣く赤ちゃんの世話を1人でする日々。

「これくらい世のお母さんはみんなやっている」と何とか自分を鼓舞して頑張っていたが、

妊娠中の入院・絶対安静生活で体力が枯渇していた私には本当に大変だった。

 

半べそでお義母さんに「この3ヶ月ほとんど寝れていないんです」と言っても、

「それが普通だよ」と言われた。

「それが普通」と言いながら息子の世話はしてくれるものの、

「大変だよね、よく頑張ってるよ」って誰か寄り添ってくれよ!!!って泣き叫びたかった。

 

 

そんな頃にコロナが始まり、また外に出られなくなった。

妊娠中は絶対安静でスーパーにも行けなかった。

息子が3ヶ月を越え、少し慣れてきてお義母さんに預けられる時が出てきた頃だった。

「赤ちゃんに絶対に感染させてはいけない」と、外出自粛、除菌地獄の日々が始まった。

 

ほぼまる2年、切迫早産安静とコロナで、自由に外に出られなかった。

その間、辛くてたまらない家にずっといなければならなかった。

 

 

よく1人で泣いた。

何もかも投げ出したくて、誰かに頼りたくて、

何もしてくれなかったとしても話を聞いて「うんうん」って言って欲しくて。

「よくやってるよ」

「ここまでよく頑張ってきたよ」って言って欲しかった。

 

私が1人で泣いていたり、夫と怒鳴りあっている時、

息子はいつもニコニコしていた。

まるで、悲しい私を励ますように。

本当にかわいいまんまるの顔で、ニコニコと笑っていた。

私につられて泣くようなことは一度もなかった。

息子が、あの時の私を守ってくれていた。

 

息子はかわいい。

 

けれども、夜泣きに耐えられず深夜に夫の膝を叩いて起こしたら、

「何で殴るんだ!」と激怒されて、

ベビー柵を投げて家の中で暴れられ、ドアを壊されて数日家に帰ってこなかったこともある。

 

そんな時も、1人で泣きじゃくる息子の世話をするしかなかった。

誰にも相談できなかった。

 

 

今思うと、夫も辛かったと思う。

結婚してからずっと土地の文句を言い、覇気もなく、ずっと辛そうで、

全く幸せそうではなく、それを全部自分のせいにしている妻。

子どもが産まれてからは毎日泣きそうな顔で疲れ切っていて、イライラしてため息ばかり。

どこにも安らぐところがなかったのは夫も一緒だったとは思う。

 

お互い、「絶対にこいつに寄り添ってたまるか」と思って生活していた。

 

 

さらに私は公的支援、育児サポートの知識が全くなかった。

 

育児に忙しく、眠れず、授乳していると体力も限界まで奪われるため、

色んな資料に目を通す気に全くならない。

検索はできるし、スマホの画面は見られるけど、紙の書類となると目が滑って全く読めないのだ。

 

「家に支援員さんが来てくれる時に聞けたでしょ」ともよく言われるが、

何から聞けばいいのかもさっぱりわからないのだ。

 

「夫とも毎日喧嘩で義母さんに預けられるんですが遠慮してしまってなかなか預けられません。

もう気が狂いそうです。ちょっとでも息子から離れられるところはありませんか」

なんて聞いたら、この母親は頭がおかしいからと、息子を取り上げられると本気で思っていた。

  

 

もともと育児に興味がなかったので、

幼稚園と保育園の違いも、何歳から何歳まで通えるのかも、

預かり保育の存在も、全く知らなかった。

知っていたのはベビーシッターだけだった。 

 

今ならファミリーサポートや、様々な公的支援が受けられ、

託児所や預かり保育の存在があるのも知っている。

けれど、当時はそんなこと全くわからず、

市役所に「子どもを短時間遊ばせられる、もしくは預けるサービスって何がありますか」って問い合わせたこともあるのだが、

その時電話口に出たおじさんがあまりわかっておらず、

「いや〜〜今はコロナだし無いですね」と言われてしまった。

 

「ああ、コロナだし、田舎だからこの子を預けられる場所ってないんだ」と、

その後1年間、私は預けられる場所の存在を知らなかった。

 

夫に調べてくれと言っても「よくわからない」と言われ、

義母さんにベビーシッターを活用したいと言っても

「ベビーシッターは危ない。それなら私がみる」と言われた。

家族に任せるのは「お伺いを立てる」というルートを通らないといけないから精神的に削られる。

ならいっそお金を払って他人に任せたいのに。

その気持ちはわかってもらえなかった。

 

 

結局2歳を過ぎるまで知識がなかったのでどこにも一度も預けられなかった。

 

限界だった。毎日死にたいと思っていた。

死にたいと思わない日は、ひたすら「あと20年間ここで我慢だ」と思っていた。

札幌に帰ることもできない、帰って子どもを1人で養える気がしない。

この子を置いて1人で帰りたくはない。

でもここでの誰からも理解されない生活は限界。

その堂々巡りだった。

 

 

そんな頃、私はTwitterと出会った。

そこで知り合ったAさん。

 

彼女が、私の人生を変える。

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