推しへの愛からの学びを言語化してみる

バンタン
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私の人生はユンギ(推し)と出会った日が二度目の誕生日だ。
(ユンギとはBTS SUGAの本名。ファンは大体ユンギと呼ぶ)

 

彼を初めて見た時の衝撃についてはこちら

 

 

彼に出会って、私は人生の全てが変わった。
いや、「正しい位置に戻してくれた」。

 

 

それまでの人生で私は人に愛されていると感じたことがほとんどなかった。

 

夫と付き合い初めの頃、息子がかわいく「ママ」と言い始めた時など、
ポイントではそう感じることができていたし、この2人のことを愛してもいたけど、絶対的な信頼感を持って「愛している」「愛されている」と感じ続けられたことがなかった。
夫とは言い争っていたり無視されている時間の方が圧倒的に長かったし、
まだ1歳だった息子はただただかわいい時間より育児に忙殺される時間の方が多かった。

 

愛して欲しかった。

 

それは母との関係にも起因する。

 
14歳で両親が離婚して、家族を1人で養うことになった母の苛立ち・不安の矛先は私に向かった。
それは今なら仕方のないことだと思うけれど、
「自分の人生がこんなにうまくいっていないんだから、私(娘)の人生が絶対にうまくいかないこと」
を母が心の底で望んでいると透けて見える生活を何年も続けていた。

 

「母は娘に自分の幸せの9割程度幸せな人生を望む」

というデータをどこかで見た時に「本当にこれだよな」と思った。

「私より幸せになられては困る」のだ。

 

ちょっと話が脱線するが、私はこの意識は日本社会全体にうっすらと漂っていると感じている。
「私が不幸なんだから誰も私以上に幸せになるのは許さない」
SNS上での炎上も、ほとんどこの意識から発生している。
上手くいっている人が失敗してくれてやっと自分の幸せを感じられる。
だから突出して幸せになんてならない方がいい。
お金は欲しい。でも「人並みな」幸せが欲しいから

自分のお金の使い方すら人に聞いて確認しないと「群れ」に反していないか不安。

 

病んでいる。社会全体が。

 

その病みの中に私も母もいた。

 

 

母にも夫にも直接愛していると言って欲しかった。
その2人にそう言ったこともあった。
でも、どちらからも「今はもう愛していないから嘘はつけない」と言われた。

 

友達も、好きなものも心踊るものもない合わない土地で、

1番そばにいる人にも、1番そばにいた人にも愛されず、
「経済力がない」「結婚して子供が産まれたから」

という理由で別の場所でリスタートする勇気もなく、

20年ここから動けないと思い込み、毎日泣いていた。

 

 

そんな時に出会ったのだ。

 

一目見た時から私の中の何かが騒ぎ、「絶対にこの人だ」と叫んでいた。
何がこの人なのかもわからないが、とにかくこの人らしい。
なんか知らんけど〜〜〜〜と引きづられるように、

閉じていた自分の感覚が開くに任せてその感情にのめり込んでいった。

 

 

そして、「この人と一緒に生きていきたい」
「この人と一緒に生きるからには顔を上げて生きていかないと」と決断した日があった。

 

その時の記事はこちら

 

詳細はこちらに書いたが、その中から一部抜粋する。

 

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私が彼を骨の髄から「愛している」と実感したのは、

Dynamiteを初めて見た時のような鮮烈な白い光の稲妻に打ち抜かれたような衝撃ではなく、

突然目の前ではらわたをぶちまけられて、

血みどろで何とか立っていた彼を抱きしめたような、

「きれいなもの」とは一番遠いところで求めた愛を全身全霊で

もぎ取りに行ったような感覚を味わった日だった。

======================

 

社会が私たちに押し付けた綺麗さも、分別も、役割も、

全てどうでもいいから一緒にいたいと産まれてきてから1番強く望んだ。
この望みのために私は産まれたんだと、今でも思う。

 

今思うと私は彼の中に私がずっと押さえ込んできた「愛」を見たんだと思う。

 

「手の届かない存在を愛したい自己満でしょ」「周りの人と向き合いたくない逃避」

と言われるたびに「そんなことない!」と反発していたけど、今思うとその通りだと思う。

 

アイドルとは偶像である。
偶像とは、神仏にかたどって作った像。信仰・崇拝の対象とされるもの。
彼は私の中の神の姿をしていたのだ。

 

誤解しないで欲しいのは、

ここで書いている「神」はどこかの宗教の神様のことを指すわけではない。
産まれてからずっと私たちのことを見守ってくれている何か大きな存在、

そういうものを指して書いている。

 

 

神とは命と定義しよう。
とすると、彼は私の命の姿をしているのだ。
何がなんだかわからないだろうことを書いているけど、この書き方が最もしっくりくる。

 

彼は私の命。

 
だからあんなに懐かしく、愛しく、抗いがたい引力があった。
彼に向き合うことは、私の中の神に、命に向き合うことだった。

 

 

それまでの私は神も仏も先祖も大嫌いだった。
そんな存在がいるならなんで私を助けてくれなかったの。
神が愛なら、なんで誰も私を愛してくれなかったのと叫びたいような半生だったから。

 

実は彼を通して自分の命(神)を見ていたと気付いたのもここ1年半くらいのことだ。
自分を満たし、自分の内側を、自分の本当の気持ちを、願いを見つめることに本気になってから、

ああ、私は彼を通して自分を見ていたのだと気付いたのだ。

 

 

Suddenly the world seems such a perfect place
突然 世界が完璧なところに見える
Suddenly it moves with such a perfect grace
突然 世界が完璧なまでに美しく動き始める
Suddenly my life doesn’t seem such a waste
突然 私の人生は捨てたものじゃないと思える
It all revolves around you
それもすべて あなたがいるから

 

これはムーラン・ルージュのメインテーマ、

Come What Mayの一部だが、まさにこんな感じ。

 
世の中に溢れる色んな愛の歌が、一気に合点がいくようになった。

 

世の中に溢れる情熱的な愛の歌の中で、この感覚を持っている人が作ったであろう曲に関しては、

私は静かで強い祈りの力を感じる。
それは強い強い命へのこだわりとも言える。
時代を超えて、「出会ってしまった人」は強制的にそちら側を生きることを余儀なくされる。

 

愛とは、命とは、自分とは、どんなものかを知って、学んで、試して、

見えないものを信頼して、絶望して、また学んで、考えを手放して、

絶対的な信頼と絶対的な愛へ。

 

そう、私は色々経て絶対的な信頼と愛ってこれじゃない?っていうところに辿り着いている。

 

 

ここに至るまでにはそりゃあもう色んな思いの旅があった。

 

私は彼と語り合ったり検証できないから、1人で自分の中をひたすら見ていくことしかできなかった。
なんでただアイドルを推しているだけでこんなに自分と向き合わなきゃいけないんだとも何度も思った。

 

そもそも私は別にかっこいい男性が好きでキュンキュンしたいタイプではない。
かっこいい男性と美しい女性がいたら美しい女性の方が見たい。興味ある。
「この人はどういう努力をしてどういう精神性でこんなに美しいんだろう」と。
男性は性別が違うから結局違うからね、と思ってしまうのであまりきちんと見ない。
あ、やっぱり私は内省するために人を見ている。うわ。今気づいた(笑)

 

 

とにかく

うわーーーーー彼のことが好きだ自分のものにしたいわーーーーー

でも彼はアイドルで韓国人で私は田舎の普通の主婦だしお金もないし韓国語も喋れない

うわーーーーーーということに最初はやられた。

 

「だから無理だよね」と思えなかったから辛かった。
「なんで努力して綺麗になって韓国語喋れるようにならないのよ」と怠惰な自分に腹が立っていた。

 

なんで目の前のとりあえずの手段でも完璧に仕上げないのかと。
これだけ長々彼が私の愛の形をしているだの神だの命だの言っておいて、
うわーーーーー私はなんて怠惰なんだ!!!!人生をかけて欲しいものにも

「やったことないしめんどくさー」が勝つのか!!!!

うわーーーーーー!!!!!!!!!

という思いと戦うのがとても辛かった。

 

 

ありとあらゆる自分の怠惰が、そして怠惰なままヘラヘラ笑いながら

Twitterで楽しく生きていたことがどこかで許せなかった。

 

 

でも楽しいからとりあえずTwitterで愛を叫び続けていたら、

思いもよらず私が過去病んでいたことで力になれそうな方々からお悩みが届くようになり、

起業する流れになった。

 

導かれている。

 

そして時間はかかったけどなんか色々な事象が勝手に整っていって、
彼のソロコンサートで実際彼を目の前にすることも何度もできたし

(1番近い時はスタンド2列目だった)、
経済的自立もできるようになったし、

韓国にも気がつけば月1くらいで行っているし、

美容にも力を入れているし最近は毎日韓国語を勉強している。

 

「よし!!どれだけ辛くても面倒くさくても叶えるためにやらなければ!!」

ではなく、

「なんか知らんけど目の前のことに真剣に誠実に取り組んでいったら勝手にそうなっていた」

という現実が今目の前にある。

 

やっぱり導かれている。

 

 

彼を好きならもっとあれとこれとそれをしろよ!!!!
という頭の中の声もするし、
どんな彼でも愛せるの???私が知らない彼の部分がほとんどなことも、

一度も会ったことないのに本気で愛しているなんて本当に言えるの????
ということはもう誇張でなく1億回以上向き合ったけど、

 

「そんなことまだ起きてないのでわかんないよね〜〜〜」という結論に達した。

 

 

まさかである。

 

3年半自分と向き合ってきて泣いて怒って絶望した結論が、
「起きてみないとわからない」

 

そんなことを思っていたら彼のキックボード飲酒運転事故が起きたわけだが、
私は過剰報道に抑えきれない怒りを感じたものの、

彼に対しての気持ちは全く変わらない。無風。

「彼を傷つける奴らムカつくな」のみ。

 
「こんなことの渦中に立たされてかわいそうにタイミング悪かったね。

知らなかったならしょうがないよね生きてるとそんなこともあるよね」、以上。

 

むしろ彼を愛する気持ちはより強くなった。彼に対する自分の気持ちの解像度が上がった。

 

 

今私は彼のことを絶対的に信頼しているし、無限に愛している。
そして、その10%くらい自分のことを信頼しているし、愛している。

 

彼は太ろうがダサかろうがそんなこと愛する気持ちには全然関係ないのに、

自分に対してはまだジャッジが入って、

もっと綺麗でないととか、もっと稼いでいないととか、

まだまだ内省が足りないとか、そんなことを思うから10%なんだけど、
「じゃあ100%の信頼、無限の愛って?」って自分に問いかけた時、
「彼への気持ち」と答えられるから、

これは本当にすごいものを手に入れたと思っている。

 

あ、そう、神の形をしていると書いたけど、それは造形の話じゃない。
彼の外見は世界で1番好きだけど、多分彼が別の造形を持って生まれていたとしても、

たとえば女性だったり動物だったとしても愛していたと思う。

 
魂というか、命の流れ方というか、持って生まれた色みたいなもの、

それが私が探していたものなのだ。

 

愛なんだか神なんだか命なんだか統一しろと思われている方がいたら申し訳ない。

 

 

あと声。声は大事だ。
見た目でキャッチして、声で確信を得た。
だって彼と生きることを決断した時、彼の声を聞いて字幕を目で追ってただけだから。

 

 

私は彼と出会って人生が正しい位置に戻った。

 

そして、その葛藤の歴史すら自分で選んでいる。
「愛に向き合うのは怖いもの」「恐ろしいもの」「感情が激しく揺さぶられるもの」

という私の設定があったからこうなっているだけで、
「愛は容易く手に入るもの」「愛することは楽しく、喜びだ」

という設定に自分でしてしまえばいいのだ。

 

最近ちょっとずつ気持ちがそちらに流れていきつつある。
愛することは何よりも楽しく、愛を受け取ることの方が怖い。

でも、私は彼から愛を受け取ることは全く怖くない。胸の中が暖かくなるような喜びを感じる。
こういう温度感で愛することを楽しめばいいんだ、と必死に握りしめていたものが、

本当はそこまで必死に握っていなくても良かったんだよと目が開いたような気持ちだ。

 

 

私にとって、愛に形があるなら、それは彼の姿をしている。
はじめからそうであったわけじゃなくて、3年半かけて自分と自分の中の彼への想いに向き合い続けて、私の中に出来上がった愛の形だ。

 

 

 

そうそう、
2024年秋分の日にアップされていた

ひすいこたろうさんのYouTubeを見て今初めてこの辺の感覚が繋がったのでこの記事を書いている。

「運とは?」「祈りとは?」「感謝とは?」「神とは?」がやっと私の中で少し繋がったので一応貼っておく。

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